| 2004/4/12(月) | 目は口ほどに物を言う |
| このことわざは、悪事を隠そうとしても目の挙動を見ればバレてしまうというような
意味で使われる。しかし、それを広く解釈して「人の目を見れば、その人の考え方や
正確などが読み取れる」ということもできるだろう。それを今回まざまざと経験する
事となったのが「ホームオブハート」の問題だ。
事件の概略を簡単にまとめておくと、元有名ロック歌手の関わる自己啓発セミナー 「ホームオブハート」において、元関係者が「児童虐待があった」と訴えたという 事件である。そのロック歌手はバンド解散後、コンサート活動のかたわら平和運動 などにも関わっており、とても児童を虐待するような人間とは思えない。 訴えた側は「ホームオブハートは宗教的な洗脳を行っている」、「赤ちゃんを 段ボールの中で育てている」、「子どもに大人と同じように労働をさせている」などと 主張しているが、元ロック歌手は「事実無根。これは策略だ」と反論している。 報道は完全に訴えた側を支持するような内容になっていた。 その報道で気になったのがその元ロック歌手の目だ。しばらく顔を見ていなかったので、 もちろん風貌も大きく変わったのであるが、目から訴えるものが全く違って見えたのだ。 以前、彼が平和を訴えるために小泉首相に会いに行った時の彼の目は生き生きとしていた。 ところが、今回の報道で見た彼の目は常に遠くを見つめていて、「今回の事件は些細なこと」 とでも思っているかのようだった。そこから読み取れる彼の思想は「目的達成のためには このような小さな事件が起きるのは止むを得ない」。彼の目的が「世界平和」であることを 疑うつもりはない。しかし、「最終的な世界平和のためだったら多少の犠牲も止むを得ない」 と考えているとしたら問題があるだろう。 もう一つ、気になったのは訴えた側の女性の目である。常に周りをキョロキョロし、 視線が定まらない。怒りに満ちた目でもなく、悲しみに暮れた目でもない。あの目から 読み取れるのは「自分を認めて欲しい」という自己顕示欲である。ただし、彼女の化粧や ファッションを見ると、芸能人のようにおおらかに自己主張するのではなく、自分が凡人 であることを自覚した上で、ゆがんだ形で自己主張をしていることが分かる。彼女の言うことも 信用おけない。 このような状況から推測するに、元ロック歌手の平和活動にあこがれて事務所で働くように なった女性が「犠牲も止むを得ない」という彼の裏の側面を知ることで絶望し、この事件を 捏造したということが想像できる。この推測があっているかどうかは分からない。しかし、 平和を求める元ロック歌手の目がどうしてこのように変化してしまったのかが気にかかる。 | |
| 2004/2/17(火) | 再生可能エネルギーは環境にやさしい?? |
| 今の調子で化石燃料を浪費し続ければ、近い将来底をつくことは間違いない。そこで、早急にエネル
ギー源を涸渇性ではなく再生可能なエネルギー源にすることが求められており、太陽光発電、風力発電、
地熱発電、水素燃料電池などの技術開発が盛んに行われているのだが、それに成功したところで本当に
全ての問題は解決するだろうか?
エネルギーをお金に置き換えて考えてみると、涸渇性資源は先祖が貯めた巨額の遺産、再生可能エネル ギーは日々の収入ということになる。この収入は太陽から地上にバラ撒かれるお金と考えてもよい。太 陽から毎日降り注ぐお金は合計すると何億円にもなるが、かつて人類はそのうち数円しか拾うことがで きなかった。ところが、人類は地下に眠っている大量の遺産を発見して以来、毎日何万円、何十万円と いうお金を使って生活している。いま、「涸渇性エネルギーを再生可能エネルギーに転換しよう」と議 論されているのは、「遺産に手を付けるのをやめて、日々の収入を増やして対処しよう」ということで ある。 ところが、日々の収入を当てに生活しているのは人類だけではないことを忘れていないだろうか? 太陽光や風、地熱、波を当てにして細々と生きている生き物がいることを忘れていないだろうか? かつて人類が拾わなかった(拾えずに残った)エネルギーは、他の動植物が必要としていたのである。 「自然エネルギーを有効に活用しよう」というと聞こえはいいが、つまりは「物言わぬ動植物から エネルギーを奪い取る」ということである。 再生可能エネルギーは確かに化石燃料に比較すれば環境にやさしいとは言えるかもしれないが、 やはりしっかりと環境調査を行い、生態系を乱さないような配慮が必要であろう。 「太陽エネルギーの数%を利用するだけで現在のエネルギー需要をまかなうことが可能だ」など という試算も見たことがあるが、このような人間中心的な議論は許されない。人類に許されている エネルギー量はそんなに多くはないはずだ。「再生可能エネルギーを利用すれば今の エネルギー消費を続けても大丈夫だ」などとは考えてはいけない。まず第一に必要なのは省エネ である。 | |
| 2003/12/9(火) | 慈悲と癒し |
| 以前、愛について「存在を認めること」と書いたが、それはむしろ「慈悲」と言った方が
適切かもしれない。今回は仏教の話しみたいになってしまうが、「癒し」について
考えてみた。
いまや、「癒し」という言葉がつけばヒット商品になるくらい癒しを必要とする時代に なっている。しかし、ストレス解消のために破壊行為をしたりスポーツをする人がいる ことを考えると、単純に「癒し=ストレス解消」ではないことが分かる。では、癒しとは 何なのか? 僕は「癒し=慈悲の心を感じること」だと思う。慈悲の心を感じる、すなわち「あなたは この世の中で生きていてもいいよ」というメッセージを受け取ることだ。これは、ストレスの 正体が何なのかを考えたら分かるだろう。 例えば、会社で嫌な仕事を押し付けられ、失敗したら上司から怒鳴られる。そうすると 「自分は会社にとって必要がない人間なのかな〜」と思う。 例えば、何度受験しても第一希望の大学には受からない予備校生。「自分はこの 社会では落ちこぼれで、生きる価値がないのかも」と思う。 例えば、街中で慣れない車を運転していると、周りからクラクションをならされたり、 にらみ付けられたりする。「私は街中で運転する資格はないのかな」と自信を失う。 例えば、街中を歩いていても、誰も自分のことを気にも留めずに歩き去る様子を見て、 まるで自分が存在しないか、透明人間のように感じる。 このように、都会の中には「あなたは存在する必要がない」というメッセージがとても多く、 感受性の高い人ほどそのメッセージを強く受けながら生きている。このような人たちに 必要なのは「あなたは存在してもいいよ」というメッセージなのではないだろうか? それこそが慈悲であると思う。 そして、人が自然の中に立つことで癒されるのは、自然の中には「生きていてもいいよ」 というメッセージが満ちあふれているからではないだろうか?自然はちゃんと我々人間が 生きていけるだけの食べ物、飲み水、暖かい住まい、毛皮などを用意してくれている。 しかし、今我々人間は用意されているもの以上に要求し、奪い取っている。こんなことを 続けていたら、自然はいずれ「生きていてもいいよ」というメッセージを発しなくなるだろう。 | |
| 2003/12/1(月) | ものの値段 |
| ものの値段はどうやって決まるか?中学校くらいで習うのは、「原価+利益、
資本主義では利益は需要と供給のバランスによって決まる」というもの。
ところが、今その経済観念を大きく変える必要に迫られている。家電製品の
一部に廃棄費用も上乗せしようという動きがあった。結局上乗せせずに廃棄する時に
廃棄費用がかかることになったが、それまでの経済は、「後始末にも費用がかかる」
という当たり前のことが考慮されていなかったことがわかる。
今の経済に「後始末」を取り入れると、これまでの経済は根底からくつがえされる。 例えば、タバコを吸うことによってどれだけの人が病気にかかり、どれだけの医療費が 浪費されているのか?その医療費をタバコの値段に上乗せしたら、恐らく 一箱は1000円をゆうに越える値段がつくだろう。 例えば、車を使うことによって大気汚染、森林の枯死、騒音、粉塵が発生し、 多くの人が喘息、自律神経失調などの病気にかかっている。さらには、 運動不足によって様々な成人病、それを解消するための無益な健康運動。 それらを含めた車のコストは果たして1000万円で済むだろうか? 例えば、原子力発電所は放射性廃棄物と廃炉にかかる費用はほとんど考えられずに 電気料金が決められている。「ほとんど」と書いたのは、放射性廃棄物が無害化するまでに かかる年数が約1万年なので、費用の計算が難しいというのもある。こんなことを 考えたら、原発一基にかかるコストは日本の国家予算をはるかに超えてしまうだろう。 例えば、石油の値段。石油を燃やせば燃やすほど二酸化炭素が発生し、地球が温暖化し、 対策費用が必要になってくる。緑化、海面上昇対策、洪水対策、酸性雨対策、野生動物保護。 ガソリンを買う時に払っているガソリン税はそのような対策費用なのかというと、 全然違う。新たな道路を作ったり、橋をかけたり、トンネルを掘ったりと、さらなる 環境破壊に使われているのだ。 人間界は所詮は自然界の一部。山から木を1本取ってきたら山に木を1本返さないと バランスが取れない。海から魚を取ったら海で魚が増えるようにしないとならない。 二酸化炭素を出したらそれが吸収されるようにしないとならない。 その原理に基づいてものの値段を決めるような市場経済を作れば、きっと紙や プラスチックや金属やエネルギーを浪費することはできなくなるだろう。 いや、そうしなければ地球はあっという間に廃棄物の山になるに違いない。 | |
| 2003/9/10(火) | 自然の変化 |
| 科学的に認知されている変化には2種類がある。
一つ目は、状態Aから状態Bへの変化と、逆にBからAへの変化が
同時に起こって、そのバランスでAとBの割合が変動するという場合で、
可逆変化と言われる。もう一つは、AからBへの一方的な変化だけで、
逆の反応は起こらず、不可逆変化と言われる。
この2つの変化は必ずセットになっている。温度や圧力などの条件を 変化させると、ある小さい範囲では必ず可逆変化が起きるが、それ以上 大きく条件を変えると、不可逆変化になる。ちょうど、バネを少し 伸ばしても元通りになるが、大きく引き伸ばしてしまうと伸びっ放しに なるのと同じだ。 この変化を分かりやすく解釈すると、次のようになるだろう。 「自然界で何か変化が起きようとすると、その逆の変化が起こって 相殺しようとする。その間は元通りにすることが可能である。しかし、 相殺しきれないほど大きな変化に対しては、落ち着く所まで一方的に 変化が進行して、変化後は元通りにならない」 この法則は全ての自然現象に適応できる。造山活動と侵食活動の バランスで地形が出来上がったり、成長と枯死のバランスで森林が 一定の樹量を保ったりということは、可逆変化に相当するだろう。 ところが、人間が山を削ったり、森林を伐採したりするのは多くの場合 不可逆変化ではないだろうか?環境アセスメントでは、絶滅危惧種が いるかどうかばかりを調査して、このような視点での調査は聞いたことがない。 「自然はある閾値(しきいち)を越えたら、一方的に変化が起こって 取り返しのつかない事になる」ということを科学者だけでなく、 一般市民も知っておく必要があるだろう。最近の異常気象を見ていると、 我々人間はその閾値をすでに越えてしまっているのかも知れない。 | |
| 2003/9/8(月) | 断食の効果 |
| イスラム教、仏教、キリスト教のみならず、多くの宗教では断食をしなければならない。
なぜ断食をしなければならないのか?単に、宗教でそう定められているからなのか?
私は何の宗教にも帰依していないが、興味があったので断食をしてみたことがある。 1日目、腹が減ったな〜とは思うけど、別につらいということはない。2日目、強い 空腹感が断続的に襲ってくるが、まだ耐えられる。2日目の夜はつらい。唾液がとめどなく 流れてきて、なかなか寝付かれない。これを耐えて3日目になると、空腹感がなくなり、 普通に生活できるようになる。4日目は突然ガクッと力が抜けたようになり、歩くのも 階段を登るのもすぐに息が切れるようになる。私はいつもこの時点で断食をやめている。 食べ物を口にすると30分程の間に急速に体力が回復する。 さて、この断食は自分にとってどのような意味があったのか? まず一つ目は、断食後に体がとてもすっきりしたような気分がした。もちろん、錯覚 かもしれない。二つ目は、何らかの理由で4日くらい食べることができなくても 普通に生活できるということが分かった。 断食の意味について深く考えてみたが、ちょうど会社のリストラに似た効果がある のではないかと思う。細胞にも社員と同じように色々なタイプがあるだろう。 エネルギーを大量に消費するけどほとんど働かない役立たずの細胞。エネルギーを 大量に消費してそれなりの仕事をする優秀な細胞。ほとんどエネルギーを使わずに そこそこの働きをする省エネ細胞。 断食をして供給エネルギーを制限すると、相当役立たずの細胞は慌てて働き出す か、もしくは死に絶えるであろう。優秀な細胞も一部被害を受けるだろうが、 省エネ細胞は無傷で生き残る。断食には、そうやって体をリフレッシュする効果が あるのではないだろうか?(もちろん科学的な推論ではない) | |
| 2003/6/30(月) | 自然の「美」とは |
| 人間は自然界の様々なものを美しいと思うが、このような感覚は
いつ頃から生まれたのだろうか?人間がまだ自然の一部だった
頃からそのような感覚があったのだろうか?
この答えは恐らくNOだ。なぜなら、現在も当時のままの暮らしを 続けている世界中の先住民にとって、美しい夕焼けは翌日の天気を 知るためのサイン、美しい野鳥のさえずりは山の中で獲物や水場を 見付けたりするための重要なサインに過ぎないからだ。 自然を美しいと思うようになったのは、明らかに人間が高度な 社会生活を営むようになってからだ。日本人は比較的早く自然美を 見出したと思うが、それは日本の自然が絶妙な美しさを持っている からであろう。 ところで、なぜ人は「美しい」と思うのか?美しさを規定するような 特定のパターンが存在するのか?ある人が「美しい」と思っても 他の人は「美しくない」と思うことだって少なくない。どうやら、 「美しさ」は対象の中にあるパターンというよりも、むしろ個々人の 脳みその中にあると考えた方がいいのではないだろうか? つまり、その人が育った社会的環境によって「美しさ」の定義が変わる と思われる。 このように考えた時、私は人間が自然界の様々なものに対して「美」を 見出す状態を「末期症状」だと思う。それは、人間は自然破壊をすれば するほど自然に対して「美」を見出すように脳みそに仕掛けがしてある のではないかと思うからだ。自然だってバカではない。美しいものは 壊したくないという人間の心理を利用して、自然が自己防衛をする ということは十分考えられる。 しかし、それでも自然破壊が続くなら、自然は最後の手段に出るに 違いない。私にも何が起きるかは分からないが、もしあなたが自分の 体に巣食うガン細胞を駆逐しようと思ったらどうするか?と考えれば、 想像付くだろう。 アメリカ先住民は個々の自然物に対して美を見出すのではなく、 全てのものが調和し、不自然でない状態を「美しい」と感じると聞く。 私たち日本人の遠い祖先もきっと同じであったに違いない。 このような美の感覚を取り戻さなければ、「美しい自然を所有 しよう」とか、「人工的に作り上げよう」などという、西洋的な 「自然支配」の方向へ進むことになるだろう。 | |
| 2003/6/26(木) | 組織の空洞化 |
| いま、あるイベントの実行委員会に参加している。規模は専任事務が2人に、
ボランティアスタッフ十数名と小〜中規模なものであるが、この組織が
空洞化していく実態を実際に目の当たりにすることができた。空洞化、
すなわちスタッフの心がそのイベントから離れているのだ。「中止になった
方がいい」、「中止になっても構わない」という意見が大半を占めている。
このようなことは、どんな小さなイベントにも起こり得ることであり、 大きな組織では日常茶飯事だ。例えば、小学校での学習発表会や中学校での 学校祭でも、学級会で「みんなやる気がないんだったら、中止にしましょう」 なんて発言が出ることがあるだろう。実際に中止になる例もあるかもしれないが、 大抵は結局何とかなってしまう。 それに対して、大きなイベントでは一度動き始めてしまうと、いくら空洞化が 起こってもすぐには止められない。「何十〜何百万円も費やしたのに、中止に なったらドブに捨てたのと同じ」というのが許せないのだ。それで、内部問題を 抱えつつ無理矢理実施して、中身の薄くてつまらないイベントになってしまったり、 使途不明金を出して、後で問題になったりするのだろう。 では、なぜ空洞化が起きるのか?もちろん色々な事情があるだろうが、 一般的には、「当初の目的が見えなくなってきた」というのが原因だと思う。 初め、組織が誕生する際にはみんなが心を一つにして始めたはずである。 ところが、組織の中に強引でわがままな人がいたり、様々なトラブルに直面すると、 「何で私はこんなに辛い思いをしなければならないの?」って思い始める。 給料を貰って働いている場合は「辛くても頑張ろう」って諦めも付くが、 ボランティアの場合は、すぐに「辞めようか」と思ってしまうだろう。 このような空洞化による失敗を防ぐにはどうすればよいか?大まかに分けて、 2つの手がある。一つは、空洞化が起こっても動くような組織造りをすることだ。 各自が自分の仕事を機械的に坦々とこなし、決して感情を持ち込まないような 組織だ。もう一つは、絶対に空洞化が起きないように、スタッフ同士が密接な 関係を築くことである。
今現在、「日本国」という組織は空洞化の真っ只中にあると思う。国民は
目的を失い、ただ坦々と日々の暮らしを追い求め、「生きがい」など感じる
暇もない。「日本国民や〜めた」と言いたくても、行き場もない。「日本国」の
行方は三種類しかない。 | |
| 2003/6/10(火) | 「自然物」と「自然であること」 |
| ”自然”と言って思い浮かべるのは、大抵は「緑の野山、野生動物、海」などの
いわゆる「自然物」だろう。人によっては不毛の砂漠を自然に含めるかもしれない。
とにかく、このように多くの人は「自然=人間以外の非人工物」と定義しているに
違いない。
ところが、この定義には大きな欠点がある。「じゃあ、人間は何?人間の造った物は何?」 という疑問に答えられず、どこかの宗教みたいに、「神が人間を特別な存在として造った」 などという、何の根拠もない苦し紛れの説明をしなければならなくなるのだ。 「人間は特別だ」ということを証明するために発達してきた科学は、くしくも逆の結論を 出している。即ち、「人間は地球上の生物の一種だ」ということだ。 そう考えると人間という存在は紛れもなく自然物になるし、人間の作り出したものも 全て自然物に含まれるかもしれない。 しかし、この考え方にも少し問題がある。「人工物」というものが定義できない、もしくは 自然物の一部に人工物が含まれることになる。そうすると、人間が物質文明を発達させ過ぎた 結果地球を破壊したとしても、それは「自然の摂理」となってしまう。 そこで、「自然」という言葉の定義を、「あるべき状態にあること」にしたらどうだろうか? その「あるべき状態」というのは自然の摂理のことである。自然の摂理に従っていないものは 「不自然」ということができる。自然の摂理を一言で説明するのは難しいのでここでは 省略するが、センスのある人なら見ただけで「あるべき状態」にあるかどうか、すぐに 分かるだろう。 もちろん、人工物にだって「自然」な物と「不自然」な物とがある。例えば、縄文人が 使っていた土器や木製品、竪穴式住居に対して、「不自然な人工物」だと思う人がいるだろうか? 人間は道具を作り出して利用する動物であるから、人間が物を造ることは全然否定しない。 ただし、作り出す物が「自然物」なのか「不自然物」なのか、慎重に検討する必要があるだろう。 もちろん、それには長い時間がかかるだろう。 私が気にしているのは、多くの人工物がそのようなプロセスを経ずに安易に世界中に 流布してしまうことだ。科学技術の急速な発展に伴って、それは加速的に進んでいる。 地球という生き物にとって異物である不自然物は、常に排除される圧力を受け続けるだろう。 そして最終的には、地球から完全に排除されるか、逆に地球を滅ぼすかのどちらかしか 道はない。 | |
| 2003/5/12(月) | 普通であること |
| 某O宗教集団のように、変な白装束集団が世間を賑わせているが、ワイドショー
などでは「教祖は精神異常なのではないか?!」などと報道されている。「社会の中で
普通に生きていれば、あんな変な人間にはならないはずなのに…」というのが前提の
ようだ。しかし、あのような狂信的な思想を生む背景は、十分すぎるほどこの社会の中に
備わっている。
狂信的な人間は、自分の欲望・夢がかなわないことを最も嫌忌する。
狂信的な人間は、人生についての答えを与えてくれる人を神のようにあがめる。
狂信的な人間は、他人(特に異見のある人)の言うことには耳を貸さない。
狂信的な人間は、同胞者が周りにいると安心する。
狂信的な人間は、人生の目的を自分で見つける事ができない。 「大丈夫、夢は必ず叶うよ」なんて、歌やドラマで耳にタコができるほど聞くし、 答えを知っているだけで大金がもらえるクイズ番組や、ちょっと変な人を 面白可笑しく書き立てて馬鹿にするワイドショー、「真似しなさい」と言わんばかりに 偉大な学者やスポーツ選手の生い立ちや育て方を紹介するTV番組が絶えない。 他人との異見の食い違いを、「議論するだけ時間の無駄だから」という理由で 議論を尽くさないのが常識となっている。 このような世の中で「普通」とはどのような人間なのだろうか? | |
| 2003/5/6(火) | 愛についてPartU |
| 前回の「一般的な愛」よりもさらに深めて、男女間の特別な愛について考えてみた。
まず、愛のように見せ掛けて「真実の愛」ではないものがある。次のような恋愛の形も 少なくないどころか、現在は大半がこれらに分類されるかもしれない。 1.「寂しさを紛らわせるため」…恐らく一番多い例。一人でいるのが寂しい人は、誰と付き合っても 絶対に紛らわすことはできない。短に時間をつぶしているだけ。 2.「同情」…「あの人は私がいないとダメだから」というセリフを聞くことがあるが、それは 相手に対して解消の見込みがない不満を持っている証拠であり、いずれストレスが 爆発するパターンだ。 3.「中毒」…セックスやお金などによって中毒(依存症)のようになっている男女関係。 4.「便利だから」…男が女を家政婦のように扱ったり、女が男を給料取りのように 扱ったりする例は絶えない。現在は他にも色々なパターンがあるが、結局は「相手がいると 便利だから」ということ。 5.「所有欲」…恋人や結婚相手を自分のステータスと考え、自分の好みを押し付ける。 流行や自分の好みが変わったりすると、次々と相手を変える。 上記の「見せ掛けの愛」に共通するのは、自分の欲望を満たすために一方的に自分の 要求をつき付けている点だ。このような見せ掛けの愛ではなく、真実の愛とは何なのか? 様々な要素が絡み合っているとは思うが、一番のキーワードは「思いやり」だと思う。 人生における様々な決断は最終的には一人一人が行うものだが、「思いやり」とは その決断に相手の視点を入れることに相当する。人間の脳みそには一般的に 「思考回路」と言われる神経回路があって、それが個性を生み出しているが、 「愛」とはその思考回路を共有もしくは共鳴させることに相当するのではないだろうか? 愛の共鳴には音の共鳴と同じように、和音と不協和音がある。誰とでも共鳴して美しい ハーモニーを奏でられるわけではないし、共鳴させること自体も簡単なことではない。 真実の愛とは、「共鳴する(かもしれない)相手と、共鳴させる努力をすること」であると思う。 | |
| 2003/4/28(月) | 自然は神か? |
| 多くの先住民は、自然物全てに神が宿るという「多神教」を信仰しているとされている。
ところが、その内容をよく見てみると、「創造主が自然を造った」という点では、多神教も
キリスト教などの一神教と一致していることが分かる。では、なぜ多神教と一神教の間で
大きな文化的な差が生まれたのだろうか?
実は、「我々人間は何者か?」という疑問の解釈の仕方に根本的な違いがあることが 関係している。多くの一神教では「人間は特別に神に近い存在であり、他の動物の 支配者である」と考えるのに対して、先住民の多神教では「人間は動物の一種に過ぎない」 と考えているのである。今日のように科学が発達する以前には、「人間が動物の一種だ」 ということを論理的に証明することはできなかったため、どちらの立場を取るかは 自由であった。 単純に考えると、「自分は動物の一種に過ぎない」と考えるよりも「自分は特別な存在だ」と 考える方が気持ちが良いだろうから、全ての人間はそう思いたいに違いない。ところが 先住民はそう思わないのである。なぜだろうか? 私は近年山歩きをするようになって自然観察を始めたが、何となくその答えが見えてきた ような気がする。人間は確かに素晴らしい能力を持っているのだが、他の野生動物や 植物だってそれぞれ驚くような能力を持っていて、厳しい自然環境を生き延びている という姿が見えてきたのだ。厳しい自然環境を生き抜いている先住民は、同じく 厳しい自然生き延びるている動植物から何かを学ぼうと、謙虚な態度で観察している のではないだろうか?そして、そのような動植物に対して対して仲間意識が生まれた のではないだろうか? 最近、遺伝子が解明されたことにより、「人間が特別な存在だ」ということは論理的に 証明される見込みはほぼ無くなった。「人間が特別な存在だ」というのは人間のエゴに 基づく勝手な解釈であって、論理的にも道義的にも間違っていることはもはや否定できない。 近年、環境問題が声高に叫ばれているが、「人間は特別だ」という立場の自然保護活動も 少なくない。今、必要なのは、「自然をよく観察すること」と「自然に対してもっと謙虚に なること」ではなかろうか?その意味で、先住民文化はとても理想的な文化と言えるだろう。 自然を神と見るか否かは個人の自由であるが、それが環境に与える影響は非常に大きい。 皆さんならどちらを選びますか? | |
| 2003/4/2(水) | 愛のかたち |
| 「愛とは何か」なんて語ることができる程の人生経験がない自分が「愛」について語る
など、とても気恥ずかしいのだが、最近深く考える機会があったので、以前から
考えていた「愛」について整理してみた。
まず、一般的な愛とは「ある限られた空間の中で共に過ごす(過ごさなければならない) 生物同士が、平和に暮らすために抱く感情」とでも言えるだろう。即ち、他者に対して 「あなたは存在していてもいいよ」という許可を与えることが愛と考えられる。 「愛する=存在許可を与える」、「愛される=存在許可をもらう」ということだ。 それに対して、逆の感情である憎しみとは「存在を否定する」ことになるであろう。 愛を、「心の中に湧き出す泉のようなもの」と例えることもできるだろう。本来、 人間一人一人の心の中では「人間愛」が湧き出しているはずである。湧出量の多い人は 他人に愛を配分することができるが、枯渇している人は常に愛を求めて右往左往 しなければならない。社会の中で誰からも愛されずに育った人の一部は、自分で 自分に存在許可を与えることがあるが、これが今流行の「自己愛」であろう。 とにかく、人間というものは愛(存在許可)無しでは平穏に生きられない動物だ。 生きることの目的は、「なるべく多くの愛を獲得すること」とも言えるだろうが、 愛を与える方はどうなっているのだろう?私の見るところ、現状では愛を分け 与えている人の割合は5〜10人に1人程度じゃないかと思えるのだが、愛を育てる 教育がほとんど行われていないのが原因であろう。家庭を持つ大人ですら、 愛を受け取る側に回っている例も少なくない。 そんな家庭内でのしつけは、「〜はダメだよ」、「〜するな」、「何でそんなことするの!」 などと、否定することばかりが強調されている。子供は当然親に憎まれている(存在否定) と受け取るので正常に育つわけがない。本当の愛とは、「〜していいよ」、 「〜まではできるはず」、「いるだけでも嬉しいよ」と、とにかく肯定することだ。 ここまでは一般的な愛について述べたが、次にいわゆる「純愛」と呼ばれる特別な愛 についても少しだけ触れたいと思う。大恋愛も結婚も経験したことのない小生には、 「理想像」しか語ることができないが、ご批判は覚悟の上だ。 一般的な愛では、泉からあふれ出した愛を授受するという関係であったが、純愛とは 用水路でお互いの泉をつなぐことなのではなかろうか?つまり、愛を共有してしまう のである。心の近い二人なら比較的簡単に用水路を建設できるが、離れている二人には 多くの障害が立ちはだかっている。しかし、一度用水路ができてしまうと、「存在許可」 などという概念は存在しなくなって、水や空気のように存在自体が当たり前の関係になる。 そこまで行くことができれば「純愛が成就した」と言えるのだろうが、そうでない恋愛・結婚の 例も数多く見受けられる。 一方的に愛を要求して満たされなければ金品を要求し、それも満たされなければ 次々と相手を変えるという人がいるが、寂しがり屋(愛に飢えた人)に多いパターンだ。 また、楽しい愛の授受だけに専念して、心を用水路でつなぐという大変な作業に 取り掛かるのを拒絶するために、恋愛中毒になってしまう人もいる。ストレス解消として 恋愛をする人に多いパターンだ。これら二つの恋愛・結婚のパターンは、不幸な 終わり方をする代表的な例である。 最近は、少ない愛を奪い合ったり、金品で愛の代わりにしたり、愛を利用して犯罪を 犯したりする事件が絶えない。また、愛の無い家庭や社会は、多くの精神異常者を 生み出している。地球という狭い空間に60億人を超える人が住んでいたら、隣に嫌な人が 来ることだってあるだろう。でも、そこで安易に相手を憎んで存在を否定してはいけない。 お互いの存在を認め合うことが難しいことは、今回のイラク戦争に限らず過去の戦争が 物語っている。しかし、人類が平和を取り戻すかどうかは、「愛」にかかっているのだ。 さらに、人間は地球上に住む全ての生物に愛を注がなければ、地球の破滅をも もたらす可能性もある。地球上の全ての存在は必要があって存在しているのだ。 人間はそれらに対しても愛(存在許可)を与えなければ、いずれ人間が周りから存在を 否定されるようになるだろう。 | |
| 2003/3/28(金) | サハリン開発 |
| 今日(3/28)、TVでサハリン開発のニュースがたっぷり10分ほどの時間を費やして
報道された。日本だけでなく、アメリカの企業も関わって油田、天然ガス田の
開発に本格的に着手したという事で、不況にあえぐ北海道の景気に良い影響を
もたらすかもしれないという内容であった。
普通に考えれば、これは嬉しいニュースに違いない。だが、ちょっと考えて欲しい。 これだけ「環境、環境」と言われている時代に、嬉々として「開発」のニュースを 祭り上げていいものだろうか? サハリンは大昔、北海道と陸続きであったことから生態系は似通っているが、 北海道の自然は周知の通りほとんど破壊されて、原生の自然などは残っていないに 等しい。だから、サハリンを含む北方領土は北海道の自然の原型をとどめている 地域と言える。そこに、いよいよ開発の手が伸びようとしているのである。これは むしろ憂慮すべき事態なのではなかろうか? 計画では、サハリン北東沿岸にある海底油田を掘り、島を南北に縦断するように パイプラインを建設するというものだが、施工関係者が住むための住宅地や道路 などの建設はすでに始まっている。自然豊かな丘が削られて道路が建設され、 川には鉄橋が掛かり、切り開かれた森に住宅地が出現している写真が紹介され、 ニュースキャスターも「良かったですね」とか「今後に期待しましょう」とか 喜びを表現していたが、ちょっと見方を変えると、これらの写真はいずれも 環境破壊を訴えるニュースになってもおかしくないものばかりであった。 こんなニュースを嬉しそうに報道するなんて、日本人の環境意識の低さが露呈するばかりだ。 もちろん、サハリンの人々はこの開発事業によって経済的な恩恵を受け取るので 歓迎しているのだが、木を殺し、土を殺し、水を殺したツケはいずれ必ず返ってくる。 今後予想されるエネルギー需要増加の見通しや、アラブ地域からの原油供給が不安定に なるとの見込みから、油田開発はやむを得ないのだろうが、せめて報道の方は 開発による利益だけではなく、負の側面もしっかりと捉えた報道をしてもらいたかった。 | |
| 2003/3/4(火) | 誤魔化し |
| 女性のファンデーションの色がピンク系からイエロー系に変わってきているという話を聞いた。
「流行色なのかな?」と思いきや、そうではなく、「顔色が悪いのを隠して健康的に見せるため」
だという。これだけを聞くと、誰しも「そんな誤魔化しをするよりも、健康的な生活をして顔色を
良くしなさい」って思うだろう。しかし、実際このような「誤魔化し」が若い女性の間で流行
し始めているのだ。
もちろん、このような「誤魔化し」はどこにでも存在する。選挙に当選するために学歴を 誤魔化したり、良い大学に入学するために成績を誤魔化したり、公共事業を受注するために 業績を誤魔化したり、数え上げればきりがない。もちろん、これらは見つかれば厳しく 罰せられる犯罪行為である。 では、「化粧で顔色を誤魔化す」というのはどうなのだろうか?これは美容整形と同じように、 「美しくなりたい」という女性の自然な欲求だと単純に捕らえてもいいのだろうか? これには2つの問題が潜在している。まず、一つ目は「誤魔化し教育」だ。今、「勉強が大切」と 思う小中学生の割合は80%以上なのに、勉強嫌いな小学生は60%以上、中学生では80%以上 である。このような実態の中で「誤魔化し勉強」が横行し、先生方も「誤魔化し教育」で済ませている ことも少なくない。「次のテストだけ何とか良い成績が取れればいい」ということで、勉強の範囲を 絞り込んで丸暗記させるのだ。そんなものが将来役に立つはずがないし、時間の無駄だと 分かっていても、とにかく「目の前の成績」だけが重要なのだ。このような教育を受け続けた人が、 将来「化粧で顔色を誤魔化す」ことを思い付いてもおかしくはないだろう。 もう一つの問題が、「不健全な社会」だ。要は、顔色が悪くなければ誤魔化す必要もないのだ。 「最近流行り始めた」ということから考えると、社会の不健全化がさらに進行しているのだろう。 顔色が悪くなる原因としてはもちろん病気のこともあるが、一般的にはストレスが主な原因 だ。ストレスは、単に過剰な労働によって起こるのではなく、嫌な仕事をやっているために 起こるものだ。好きな仕事なら数日眠らずに働いても、全くストレスにはならない。つまり、 「不健全な社会」とは「忙し過ぎる社会」ではなく、「自分の好きな仕事を選択できない社会」なのだ。 しかし、この問題の根本にはさらにもう一つ難しい問題が存在する。最近、「自分が何に向いて いるのか分からない」とか、「何が好きなのか分からない」という若者が増え、自分の好きな仕事か どうかも分からずに適当に妥協して就職し、嫌になったら辞めるという人たちの問題だ。 もちろん、この原因には間違った教育による弊害が絡んでいるのは間違いないだろう。 教育が悪いから社会が不健全になるのか、社会が不健全だから教育が悪くなるのか、 分からないが、悪循環が起こっているのは確かだ。この悪循環をどこかで断ち切らないと 「顔色が悪いのを化粧で誤魔化す」ようなことは、さらに広く流行することになるだろう。 | |
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