第2話 「大切なもの 〜ヨウコの章〜」
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それはとても美しく儚く、そして神秘的な情景だった。
ドラマだったらやや陳腐なシチュエーションに思えるかもしれないけれど、現実にそういう場面に出会うと、
言葉を失い、ただそこに立ち尽くしてしまう。
人によって感じ方は違うかもしれない。
ある人は体全体で気持ちを表現し、またある人は喜びをその奥底に閉じ込めてしまう。
十人十様、人それぞれなのかもしれないが、その時の僕は文字通りただ立ち尽くしていただけだった。
それくらい美しく、不思議な光景だった。
僕とヨウコの出合いは、そこから始まった。
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大学に入って2年目の春、ちょうどそれは入学式の日だった。
校内は、新入生歓迎のための催し物をするための準備でどこもごったがえしていた。
僕はその頃まだどのサークルにも参加はしていなかったけれど、2、3のサークルと顔馴染みになっていたので、
準備の手伝いに前日から付き合わされていた。
夜も更け、準備の目処がついたところから次第にそこかしこで宴会が始まった。僕もそれに付き合って酒を飲んだ。
4月の初めにしてはその夜は温かく、3分咲き程度に開き始めた桜が常夜灯に照らされて、酒の肴に
ちょうどいい夜だった。
僕はその頃少し自分の進むべき道を探しあぐねていて、日々を持て余していた。
いってみればそれは二十歳前後の若者によくあるモラトリアム症候群に似た思いだったのかもしれない。
ただ当時の僕は、そういう感情を吐き出すための術をもってはいなかった。
ビールを呷り、日本酒と焼酎を代わる代わる飲み干し、しまいに気分が悪くなってトイレに駆け込み、吐く。
その夜も同様に飲み過ぎていて、どこかの部室の前で盛大に吐き、その部室へ潜り込み、そのまま寝てしまった。
二日酔いで頭痛と吐き気を残したまま、僕は大学2年目の入学式の朝を迎えた。
何かの始まりとしては、最悪なスタートだった。
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朝、全身に重い気だるさを感じながら僕は目を覚ました。
軽い頭痛と胃の奥にもやついたものを感じながら部室を出た。
外は驚くほど爽快に澄み切った空で、まだ朝の匂いが微かに残っていた。
学内はまだ昨日の宴会の名残りが残っていて、信じられないくらい静寂に満ちていた。
腕時計を見ると、まだ5時にもなっていない。
準備を終わらせるためにみんなが起きはじめるのにも、まだ少し時間があった。
僕はあてもなく校内を彷徨っていた。
自動販売機でホットコーヒーを買い、ブラックのままで流し込む。
吃驚したように胃が騒ぎだし、軽い痙攣を起こしかける。
その痛みを堪えながら、僕は更にあてどもなく歩き続けた。
ほぼ完成している模擬店のようなものや、本当に間に合うのだろうかと疑うような
不出来で未完成なものたちをぼんやりと眺めながら、更に歩く。
だだっ広いグラウンドに着き、ちょうどピッチャーマウンドの辺りで腰を降ろし、マルボロに火をつける。
煙を肺いっぱいに吸い込むと、少しむせてしまった。
胃の痛みと頭痛はまだそのままだ。
マルボロをくわえたまま、僕はマウンドに寝転がった。
僕の生き方は、何かが間違っている。
それも、致命的に。
けれど、それが何か分からなくて、苦しみ、あがき、もがいている。
それはあまりにも滑稽だ。
ステージの意味すら知らないまま踊り続けるピエロなんて、道化以下じゃないか。
それでも、歩き続けなければならないのだろうか。
もしそれが生きていくという事だとしたら、なんてつまらないのだろう。
煙草が芯の方まで燃えてきはじめたので、僕は起き上がり、煙草を投げ捨てた。
グラウンドを後にして、僕はまたふらふらと彷徨い続ける事にした。
答えの見つからないテーゼを背中に背負い込んでしまったまま、僕はとても重い気分になっていた。
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気がつくと僕は学校の正面玄関の辺りまで歩いていた。
入り口から校舎まで、やや長い直線の通りがあり、その通りの両沿いに桜が植えられている。
昨夜は3分程度と思っていたが、よく見ると5分くらいに咲いていた。
中にはもう満開になっている木も数本見えた。
去年の入学式の時は、様々な緊張感をこの荘厳に咲き誇る桜を見る事によっていくらか落ち着いたものだ。
それから1年が経ち、こうしてまた同じように桜を眺めている。
不思議と、心の中のもやもやがすっかりなくなってしまったように感じた。
問題は、何も解決していないし、その問題すらも僕の中で未だ不明瞭なままだけれど、一つ一つをはっきり
明らかにしていき、それから取り組んでいけばいい。
時間は、まだこれからありあまる程あるのだから。
「………?」
ふと何かが視線にはいり、僕は足をとめた。
桜沿いの道にベンチがそれぞれ配置されているのだが、その一つに誰かがいるのだ。
それも、座っているのではなく、横になっているのだ。
「………女………?」
さっきそこを通った時は、全く気付かなかったが、確かにそこにいる。
彼女は、ベンチに横たわって、静かに寝息をたてながら朝のまどろみの中にいた。
その寝顔は、やや朝陽に照らされて眩しそうで、髪が少し顔に垂れかかっていた。
その寝顔は、とても綺麗だった。
僕は思わず見とれてしまい、そこから動き出す事ができなくなった。
「…うん……?」
彼女は目を覚ましかけていた。それで僕はますます動けなくなった。
いや、歩き出すタイミングを見失ってしまったのだ。
「寝ちゃったのかぁ……あ…?」
しばらくの間、自分がどこにいるのかわからない様子で、ぼんやりと辺りを見回していた彼女だったが、
ようやく立ち止まって彼女を見ていた僕に気付いた。
僕は何気なく歩きだし、彼女の隣に腰掛けた。
「君も、昨日酔いつぶれちゃった人?」
胸ポケットからマルボロを取り出して火をつける。
煙の行方を眺めたまま、彼女はしばらくの間何も言わなかった。
「1本くれない?」
3分くらいの沈黙の後に、唐突に彼女は言った。
僕はマルボロを1本差し出して、彼女がくわえた先に火をつけた。
口から柔らかく吐き出された煙が、落ちてきた桜の花弁をやさしく包み込んだ。
彼女の声は、僕にとても不思議に響いた。今まで聞いた事のない、遠い異国のささやきをひそかに
聞き耳をたてて聴いている、そんな感じがする声だった。
「とても空が青かったから」
「え?」
マルボロを指にはさんで大きく伸びをした後で彼女はそう言った。
「部屋を飛び出して学校まで来てしまったの。そしたらこんなに桜が咲いてるでしょ。なんだか
見とれているうちに、うとうとと横になってしまったという訳」
「あぁ……そっか…」
僕も思わず見上げて桜に視線をやった。
たしかに綺麗だ。ある意味、満開の桜よりも、このくらいのほうが興味深い。これから、どんな
風に咲いていくのか、あるいは途中で散り逝く運命なのか、それとも、、、5分咲の桜の木には
あらゆる可能性が潜んでいる。
僕には、いったいどんな可能性があるのだろうか。
「………!?」
視線を降ろすと、彼女の顔があまりに間近にあったので、ぎょっとして顔をひく。
「何?」
朝陽が反射した彼女の瞳は薄いブラウンに光り、僕の顔をなお見続けている。
その瞳は、僕を妙にざわつかせ、そして惹きつけた。
彼女の瞳の中で、僕の瞳は淡いブルーに照りかえっている。
二つの瞳の色が重なり、混じりあい、桜の花弁へと溶け込んでいく。
空気が薄くなり、僕の口は急激に乾いていった。
「綺麗な瞳……」
「……そうかな?」
彼女は微笑み、すっと立ち上がり。校内へと歩き始めた。
僕は、何かに憑かれたようにそのベンチから動けなくなっていた。それはとても強い力で僕を抑えつけ、
そこに留めさせようとする意志の力のように感じられた。
そのような訳の分からないものに屈服させられる程、僕は脆弱ではない。意志の力を振り払って何とか
ベンチから立ち上がった。
けれどそれが精一杯で、僕の口の中は完全に乾ききっていた。
「ねえ、君の名前は……?」
そう鳴らした僕の喉の音は、正確に彼女の耳に届いただろうか。
数歩歩きかけていた彼女の足が停まり、ちらと僕の方を振り向いた。
「……あなたはもう、知っているはずよ……」
声は聞き取れなかったけれど、その唇は確かにそう動いていた。
そう言うと、また微笑み、そして校内へと消えていった。
しばらくの間、僕はその場に立ちすくんでいた。
そうする事しかできなかった。
「そう……俺は、知っていた……彼女の名前を。初めて会ったというのに……何故……?」
桜が数枚、僕の周りに舞い散った。
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それが、僕とヨウコの最初の出合いだった。
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(第2話 end )
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